浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1030話

三浦組 光照寺 三浦 正順

 こんにちは。私ども浄土宗は鎌倉時代、法然上人によって開かれましたになりました。法然上人がお亡くなりになったのは、1月25日でありますが、実は、それは旧暦のことであり、今で言うと今月、3月7日になります。今回から3回にわたり、私どもの浄土宗をお開きになりました法然上人のお話をさせていただきます。その中でも、法然上人が浄土宗を開かれたあと、晩年のお話を中心にいたします。
法然上人が、浄土宗をお開きになったのは、上人43歳、時に承安五年、1175年のことでした。15歳で出家をした法然上人が、なぜ浄土宗を開かれたかというとそれは、偏に限られた人だけではなく、どんな人でも平等に救いたかったからであります。
それまでの日本の仏教は、修行を積んだ者や、身分の高い者しか仏さまの教えに触れることができませんでした。法然上人は、比叡山にて天台宗の教えを勉強され、たくさんの経典を何度も何度も読まれ勉強されました。その才能は、周りからも認められ、「智慧第一」といわれるほどでありました。
しかしそれでも、法然上人が求める、誰でもが救われる教えを見つけることができませんでした。比叡山の中にあります青龍寺でご修行をされていた時でありました。中国の善導大師のお書きになった「観経?」という書物を読んでおりますと、その中に、「一心に阿弥陀仏のお名前を称えれば、起きていても寝ていても、いつも仏を念じつづけることがもっとも正しい行いです。なぜならそれは阿弥陀仏が私たち衆生を救うためにみずからお立てになった御誓いだからです」という一節が目にとまったのです。これこそが法然上人の求められていた教えでありました。上人43歳の時であります。
法然上人のお念仏教えは、瞬く間に公家、武士、庶民へと広まっていきました。ところが、いままでの仏教界を担っていた各宗派は、法然上人の教えを認めようとはしませんでした。浄土宗の教えが広まることを妨げたり、活動をやめさせようと朝廷に申し出たりもしました。そして、ついに法然上人は、四国の讃岐の国、現在の香川県へと流罪になってしまうのです。
そのころには、法然上人は、多くのお弟子がおられました。弟子たちは、法然上人の流罪を嘆き悲しみました。しかし、法然上人は、「流罪になるおかげで四国の地でお念仏を広めることができるのだ」と言われたのです。法然上人、すでに75歳でありました。今回は、ここまでにいたします。次回は、3月11日にお話がかわります。