浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1073話

 浄土宗のお祖師様のひとり、曇鸞さまがおもしろいことをおっしゃっています。
 われわれ罪深き凡夫が、なぜそのままにしてお浄土へと往生することができるのかについて、それを「氷」と「火」によって譬えています。
 氷と火。氷の上に火を置いたならば、じきに氷は溶け、水となり、その水で火は消えてしまいます。もしその火が激しく燃えていたとしたら、なおさらです。すぐに氷がとけ、火は消えてしまうことでしょう。
 この「火」とは、人の罪の深さをあらわしています。人が生きるということは、それ自体が罪を重ねること、といって過言ではありません。普段の食卓をみれば、それはすべて命があったものです。ベジタリアンならば、それはないということはありません。植物にだって命はあります。そのように、先ほどの譬えでいうならば、誰もが、大なり小なり、罪という名の「火」を持っているのです。ましてや、人をあや殺めてしまった人は、どれほど大きな火となるのでしょうか。
 しかし、その人がどんなに罪深い人でも、お念仏をお称えさえすれば、阿弥陀様はその慈悲深い心によって、その人を受け止めてくださいます。先ほどの氷とは、まさに阿弥陀様の慈悲深い心をあらわしています。したがってその人がどんなに大きな火をもっていたとしても、その火を消すのに十分な大きさの氷をもって受け止めてくださいます。そして火が大きければ大きいほど、素早くその火を消してくださるのです。
 法然上人の『一紙小消息』というお手紙のなかに、「自分は罪深い人間であるから往生など叶わないのではないか、と疑ってもいけません。お釈迦さまは〈たとえどんなに罪深い人であろうとも、阿弥陀様が見捨てるということは決してありません〉とおっしゃっているのですから」とありますが、まさにこのことをあらわしているのです。