浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1083話

極楽寺 稗貫光遠

米とワラ

今回は、「米とワラ」ということでお話をさせて頂きます。
いま田んぼの稲は、青々と輝き育っていますが、間もなく秋風が吹く頃になりますと、稔の季節を迎え、稲穂は頭を垂れ、やがて黄色く枯れて行きますが、逆に穂先のお米は、実りへと育っています。
そして十月末ごろになれば、稲は刈り取られて、お米とワラに分類、区別され、収穫されたお米は、また来年、田んぼに植えられると、新しい命、芽が出てきます。
お米は死なない命であるのに対し、ワラはどんなに大事にしても、ワラからは決して新しい命、芽は出て来ない。だから農家の人は、あくまでも、お米を作ることが目的であって、ワラになるものを育てているのは、あくまでもその方法手段でもあります。

「山は青々 日はうらら 田には漫漫 慈悲の水
秋は実らん 無量寿を うたえ南無阿弥田植え歌
青い稲穂のその中に 白いお米を実るため
死ぬる体はその中に 死なぬ命を育つため」

私たちの人生、真の目的は、永遠の命、無量の寿(いのち)というお米を実らすため、阿弥陀様とご縁を頂き、お念仏を称えさせて頂くために、この人間世界に生れて来たのです。それなのに、その方法手段であるはずの肉体というワラを養うため、忙しいだけの人生で終わってしまい、収穫のない人生で終わってはなりませんね。
阿弥陀様の大いなるお慈悲の光明に照らされて、しっかりお育てを頂戴し、臨終という秋には、必ず永遠の世界に往き生きることの出来る教えが、南無阿弥陀仏のお念仏です。しっかりお念仏を称えて、現当二世の利益を頂戴して参りたいものでございます。

次回は、九月一日にお話の内容が変わります。