浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1094話

以前、あるお寺のお十夜法要の時でした。法要をお勤めするお上人方が本堂に入堂している時に、たまたま停電になった事がありました。夜の法要なので一瞬にして堂内が暗くなり、お詣りに来ていた人たちがざわつきました。しかし、お上人方は、慌てることなくそれぞれの場所に着くことができました。それというのは、お灯明のろうそくの明かりがお上人方の足下を照らしていたからです。滅多にない停電が、よりによってこのような大事な時に起きてしまいました。

電気の明かりが煌々と照らしていると、ろうそくの明かりはさほど目立つことはありません。照明と言う観点では、蛍光灯などの電気の明かりがあればほとんど不便さは感じません。けれどもひとたび停電になれば、ろうそくの明かりは立派な照明になります。

人間社会において何が大事と聞かれ、お金があれば何とかなる、健康が一番だ、或いは家族がなによりの支えだと答える人は多いと思います。それは自然で素直な思いでありましょう。

しかし、このようなことが兼ね備わっているだけで本当の安心が得られるのでしょうか。通常の生活が成り立っている時に、信仰による心の支えは、たとえればろうそくの明かりと同じように、電気の明かりの下で見え隠れして頼りない明かりにうつるかもせれません。電気の明かりも大切で有難いものですが、それだけで本当に十分なのでしょうか。十分なお金さえあれば、元気でいれば、平和でさえあればと。めったに停電は起きないから、今心配することはないと。

しかし、人生の終焉とう究極の停電が今日起こらないという保証はありません。こんなはずじゃなかったと慌てふためくようではこまります。そのためにも往く手を照らす大切な明かりが必要です。阿弥陀仏のお救いを信じ、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とお念仏をお唱えして、平生から信仰の明かりを灯しておきたいものです。

次回は12月21日にお話しがかわります。