浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1177話

京浜組正蔵寺 専修 大志

「命がけのプレーもここで一つの終わりを迎えた」。これは日米のプロ野球で活躍された松井秀喜選手が、現役を引退する際に残された言葉です。

常に命がけで野球に取り組み、そして命がけのプレーをもってしても結果が出でなくなった、そのときを一つの終わりとして、潔く引退を決意した。選手としての誇りと、やり尽くしたという充足感が伝わってくる言葉だと思います。

「命がけ」という言葉を辞書で調べてみますと、「死ぬ覚悟で物事をすること。また、そのさま」とあります。

私達のこの世での命の時間には限りがあり、いつか必ずこの世を去らねばなりません。そのことは誰でも知っていることです。ですから本当は、私達はいつでも命がけなのです。野球をしていても、仕事をしていても、家事をしていても、勉強をしていても、全てが自分の命をかけた尊い時間を使ってなされています。

松井選手の言葉は、この二度と戻ることのない一瞬一瞬を疎かにせず、物事に懸命に取り組むことが、人生の過ごし方として大切である、と教えてくれているように思います。例え周囲の脚光を浴びるような事はなかったとしても、何気ない日常が、実は命がけの日常であると覚悟し、大切に過ごすならば、人生がより尊いものになると思うのです。

法然上人は、そうした日々の生活の中心に「南無阿弥陀仏」のお念仏をすえるべきだと教えてくださっています。南無阿弥陀仏と食べ物を口に運び、南無阿弥陀仏と噛みしめ、南無阿弥陀仏と飲み込む。

お寺やお仏壇の阿弥陀様の前だけではなく、いつでも口に心に南無阿弥陀仏。その声は必ず阿弥陀様に届き、私達の命がけの一瞬一瞬に温かく寄り添って下さるのです。

松井選手のように自分の努力によって大事を成すという事は大変難しいことです。しかし阿弥陀様のお力に頼り、日々お念仏を申して過ごしたならば、この世での命の終わりを迎えた時に、往生という大事を誰でも成し遂げさせていただけるのです。

次回は10月の中頃にお話がかわります。