浄土宗神奈川教区テレホン法話 第698話

 青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光 これは浄土宗でよく読まれる阿弥陀経というお経の一節です。
 前回は初期の仏教教団を通じて、平等と言うことを考えてみましたが、今回はお経を通して考えてみたいと思います。
 冒頭にあげました青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光というのは、阿弥陀経の中に説かれている極楽浄土の有様を表した部分の一節ですが、極楽浄土では、青い花は青い光を放ち、黄色い花は黄色い光を放ち、赤い花は赤い光を放ち、白い花は白い光を放ち、それぞれが椅麗に咲き乱れているというのです。
 どの花がよいわけでもなく、どの花が悪いわけではありません。青い花には青い花の良さがあり、黄色い花には黄色い花の良さがあり、赤い花には赤い花の良さがあり、白い花には白い花の良さがあり、それらがそれぞれに美しく咲いているのです。
 今の世の中を省みますと、自分と異質なモノ、自分たちと異質なモノを排除しようとする傾向が多いと思います。いわゆるイジメというのはその最たるモノではないでしょうか。自分と異なるモノは理解が出来ない、自分より劣るモノは煩わししい、と言うような自己中心的な思いがその根底にはあることと思います。
 ここ数年私が気になっている一つの言葉があります。それは福祉関係を中心に普及している言葉ですが、ノーマライゼイションと言う言葉です。
 単純に言い換えれぱ、「当たり前」と言うことになると思うのですが、世の中には知的・精神的に障碍を持つた人、肉体的に障碍を持った人、様々なハンディーキャップを持った人がいます。それらの人が特別な変な人でなく、そうした多様な「杜会の平均的な人とは違う人」が、たくさんいるのが杜会の当たり前の姿、ノーマルな姿であると、受け入れてくれる杜会が、ノーマライゼイションという考え方の杜会です。
 元々が福祉関係の言葉ですので、障碍という事について例を挙げて説明しましたが、これは何も障碍だけではなく、信条・出生・職業・性別など総てのいろいろな事について言えることと思います。
 このようなお互いの個性を尊重しあい、認め合い、あるがままの当たり前の姿で、総ての人が暮らせることが、いろいろな色の花が咲き乱れる極楽浄土の姿ではないでしょうか。

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