浄土宗神奈川教区テレホン法話 第791話

 浄土宗は極楽往生を願って「南無阿弥陀仏」と唱えれば阿弥陀如来様が自らお迎えに来て下さって私達が極楽浄土に生まれかわって救われる、といういたって単純明快な教えです。
 ただ南無阿弥陀仏と声に出せばよいのですから、誰にでも出来ると思われます。
 こいうことを考えてみて下さい。
 ある日突然自分の大切な人かけがえのない大切な人に先立たれたとき、私達は、呆然として何を考えてよいのか、何をしたらよいのか、何も手につかなくなることになるかもしれません。そんなとき、先立った人の為に、そしてあとに残されて苦しんでいる自分自身のために、どうしたらよいのか?
 このようなとき、何事も無かった時には簡単にできると思われた南無阿弥陀仏が全く簡単ではなくなります。先だった最愛の人に、生き返ってほい、もう一度会いたい、救ってあげたい、そして苦しみあがいている自分自身も救われたい、という身もだえするようおな必死の思いの中にいるとき、南無阿弥陀仏もまた、必死で唱えなければ、必死で唱え続けなければ とても救いの道は開けてはこなくなります。
 あの世に先立った人を救ってあげる為には、とにかく必死で南無阿弥陀仏をとなえ続けて阿弥陀様にお願いして極楽浄土にその人を迎えとって頂かねぱなりません。そしてその人の極楽往生を確認するために、自分も極楽往生して先だった人が極楽往生していることを確認せねば、自分もまた救われないでしょう。
 もし先だった人が極楽浄土にいなかったら、その時は、自分自身が極楽往生することによって、お浄土で得られた神通力で、先だった人を捜し出して極楽浄土に迎えとって頂くことができることになります。
 ということは、とにもかくにも、自分自身が必死の覚悟でまず自分自身の極楽往生を確認することが、なにはさておいてもまず先決なのだということになります。
 浄土宗を開かれた法然上人は、疑いながらも南無阿弥陀仏とお唱えなさい、とやさしく説いておられます。なむあみだぶっ。

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