浄土宗神奈川教区テレホン法話 第811話

 私の自坊のお檀家様で、数年前ご自宅て発作を起し倒れられた方がいます。処置が早く一命を取り留めましたが、発見が遅れていれば、助からなかったとの事です。
 倒れてから目覚めるまで意識の無かったその方は、後にその事実を知り、もしそのまま目覚める事が無かったら、と夜寝る事にも大変抵抗があったと言います。体が快復するにつれて、恐怖心は今生きている事への感謝の気持ち、又自分を救けてくれた多くの人々への感謝の気持ちへと変わり、自分の命は常に誰かに、なにか大きな力に生かされている存在なのだと言う事に気が付いたと言うのです。
 元々熱心な念仏者でしたが、それ以来、朝目覚めた時、夜寝る前には、当時の気持ちのまま、生かされている自分に感謝し、お念仏も唱えているそうです。
 こうした命に関る体験を誰もがするとは限りませんし、又したいとも思わないでしょう。ただこの事を切掛とし、生かされている命を強く感じて日々を過ごす事が出来ることは大変に幸わせな事だと思います。
 私達人間はいつでも岐路に立ち選択を強いられる存在です。先程のような大変な体験は無くとも、日々の生活の中には数多くの切掛が密んでいる事でしょう。
 日々の営みを真摯に受けとめ、自身を顧みる事が出来れば、あなたもきっと生かされている存在なのだと言う事に気が付くでしょう。
 私どもは阿弥陀佛の本願であるお念仏を切掛としてその事に気が付かせて戴きました。私達の命は数多くのご先祖様からいただいた大切な命であり、この命を全うする為には多くの助けが無ければままなりません。
 生きている自分は一人だけれども生まれる事も生きる事も一人では出来無いのです。その事が心に留まれば生かされて生きると言う日々が送れるでしょう。
 そして忘れないで欲しいのは、貴方も又誰かを、何かを生かす事の出来る大切な命だと言う事です。
 生かされて生きるから生かされて生かす人生をお送り下さいます様念じましてお話を終わります。