浄土宗神奈川教区テレホン法話 第917話

金台寺 奥田昭應

見えないおかげさまに光を当てる

私たちの食べるお米は誰が作っているの? はーい。農家の方々です。 そんな、答えでは仏教のテストなら×です。 田んぼで働いている人の顔の中には、随分と高齢のお年寄りの方もいます。サラリーマンならとっくに定年。 「精が出ますね。くたびれませんかぁ?」   「しょうがんねえよ。婆ちゃんの病気、金がかかるんだ。子供達にもあんまり負担掛けられないし、孫の勉強も金がかかるみたいだし、 からだが動くうちは仕方ないんべえ」 こちらの田んぼでは、見るからにつらそうなご婦人が田の草を取っています。   「つらそうですねぇ。どうしたんですかぁ。」 「ヘルニアが時々ズシンと痛むんだ。腰曲げてばっかりいる性だよ しんどいけど 仕方ないんべえ 折角いただいた命だし。じいちゃんだって、リュウマチ抱えて、私よりもっとシンドイのに、痛さ我慢して、がんばっているっしなあ」 向こうの畑では、鍬で耕している人がいました。 「精が出ますね・・・・・・精が出ますね・・・・・・あれぇ聞こえないのかな もしもし、精が出ますね」 「うるさい アッチ行け」   「おーこわー」 「あのおじさん 何であんなに不機嫌なんですか」 「仕方ないんべえ 三人息子の長男が、車に引かれて、死んじゃってよー。きっとつらいんだよ。もくもくと仕事して、忘れたいんだろう。 一番下の子供はまだ幼稚園だし、家に居て、ただ泣いてばかりいる訳にはいかないしさあ。頑張ってんだよ」 みな、人の営みである。人それぞれが、みんな色々な苦労をショって生きている。働いている。家族のために頑張っている。 そんな人間のお互い様が ささえあって やっとやっと生きている 数珠の珠の、一つ一つをつなぐ糸は見えなくても、それぞれが頑張って、見えない糸に支えられて、一つの輪(和)を作っている。 智慧の智には、知るという字の下に日という字を書く。気づかない御蔭様に、光を当てて、頂いていることの有難さに、しっかりと眼を向けなさいと。

次回は1月21日にお話が変わります。