浄土宗神奈川教区テレホン法話 第984話

港南組 三佛寺 吉川 瑞教

 私事で恐縮ですが、我が家には高校2年になる息子がおります。毎朝学校に出かける時、家内は息子を見送るのですが、ただ玄関先で見送るだけでなく、駅に向かう息子の後姿が見えなくなるまで見送っています。時には心配そうに、時にはにこにこしながらその姿を追っています。毎日の何気ない光景ですが、私はその家内の姿に「母というものはこういうものなんだな」とたびたび思っておりました。
ある時、「はっ」と気がついたのですが「自分も子供の頃は同じように母は自分の後姿を見送ってくれたはずだ。しかし、自分はその母のまなざしをどれだけ感じていたのだろうか。」振り返って母に手を振り返すことはあっても、そのまなざしを有り難く感じていたことは、あまり無かったような気がします。そのことを、今更になってようやく気づいた自分の情けなさ、8年前に亡くなった母への申し訳ない思いにつまされたことがありました。
 私たちは親から多くの、そしてそのひとつひとつが掛替えのない大切なご恩を頂戴しているはずです。「恩を知る」「恩に報いる」という言葉も決して聴き慣れない言葉ではありません。しかし、果たして自分が本当に「ご恩を受けた有り難さが分かっているのか、そして、そのご恩にふさわしいお返しができているのか」といえばそうではないことばかりのような気がします。しかも、親が生きているうちにそのご恩を感じ、せめて感謝の気持ちを表すことができればまだしも、亡くなってしばらく経って、昔のふとした出来事を思い出し、今になってやっとそのご恩の有り難さに気づくことの方が多いような気がします。
 阿弥陀様のいらっしゃるお浄土に往生された方は仏様への道を歩まれます。そうするとその方はひときわ勝れた能力を身に付けられます。そのうちのひとつに他人の心のありさまを知ることができる力があります。私が昔のことを思い出し、遅れ馳せながら、その時のご恩の有り難さに「今」気づいていること、そのことを母は「今」受け止めてくれていて「やっとわかったのかい」とにっこりとしているかもしれません。
 次回は12月1日にお話がかわります。