浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1032話

三浦組 光照寺 三浦 正順

 こんにちは。春彼岸を迎えました。今月は、浄土宗をお開きになられた法然上人のお話をさせていただいています。前回は、京の都を追われ、四国讃岐への流罪になりながらもその地で人々にお念仏を弘められたというお話をいたしました。
実は、もともとは土佐への流罪のはずでしたが、九条兼実公のはからいにより土佐よりも近い讃岐へと流罪地が変更され、小松庄生福寺というお寺におられました。小松庄という場所が京都の風景と近かったところから、法然上人は、まるで京都にいるかのような思いがしたそうです。
法然上人のお生まれは美作国、現在の岡山県ですが、出家をされてから故郷へもどることはありませんでした。生福寺におられた時、近くの山へと登り瀬戸内海を隔てた対岸の美作国へ思いを馳せ、先立たれた父母と極楽浄土での再会を願いお念仏を称えたことでしょう。
ほどなくして、免罪となり讃岐をお出になります。すぐには京都へと戻らず、摂津国勝尾寺にて四年ほどお過ごしになられます。そしてその後、京都へとお戻りになられます。すでに法然上人は79歳でございました。
ある時、法然上人のお弟子でありました法蓮坊信空という方が、「過去の偉大な方々は皆遺跡がございますが、お師匠様が往生されたあとは、どこを遺跡としたらよろしいでしょうか」とお尋ねになりました。すると法然上人は、「遺跡を一か所にすると遠くの方には、お念仏の教えは弘まりません。お念仏の声がするところは、どこであろうと私の遺跡なのです。」とお答えになりました。
翌年、建暦二年1212年、1月25日、法然上人は80歳でお亡くなりになります。その地は、現在、浄土宗の総本山知恩院がございます。来年は、法然上人が亡くなられて800年のご祥当の年です。一人でも多くの人がお念仏を称えることが、法然上人にとって最もお喜びになることでしょう。なによりもお念仏の声は必ず阿弥陀仏お聞きになって私たちを救ってくださいます。ご一緒に南無阿弥陀仏のお念仏をお称えいたしましょう。今回はここまでにいたします。次回は、4月1日にお話がかわります。