浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1062話

金台寺 奥田昭應「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
皆様はこの言葉をどのように受け止めらますか。
「ふざけたことを言いやがって」とお怒りなる方
「なるほど、その通り。うまいことを言うな」と感心する方
中には、新年早々から皮肉をこぼして「正月を迎えて、めでたいめでたいと浮かれているが、何がめでたいものか。わしは、死ぬ日にまた一年近付いたというのに。」という方もいるかもしれません
それでは、あと何回お正月を迎えたら私たちはあの世に旅立つのでしょうか。たしかに一里近づいたかもしれませんが、それでは、冥土まで一体あと何里有るのでしょうか。所詮、自分の「死ぬ日がいつか」ということは誰にも解かり得ません。
「毎日毎日が死に近づいている、刻々とこの身をすり減らしながら私は死に向かっているんだ。」などと考えていたら、とてもやるせなくて、それこそストレスで寿命を早めてしまうかもしれません。
いつ、どんなことが有って、どんな災難や思わぬ病気に見舞われて、命を奪われるかもしれないのはお年寄りだけでなく、この私もふくめて誰もが逃れられない「諸行無常」の道理なのです。どんな宗教でさえも、私の死ぬ日がいつかなんてことは解かり得ません。どんなに先進医学が発達した未来でも、永遠に変わらない真理なのです。
むしろ、いつ死んでもおかしくないこの私が、不思議にも今日一日また生かさせていただける、このことの方が大事なのではないでしょうか。
あの日あの時、あの病いで、あの事故で、死んでもおかしくない私が、今日、今、この日をまた与えられたのです。だんだん擦り減っていく、あいつはあんなに多いのに俺はこれだけしかない、と損したみたいに考えるから、愚痴が出るのです。やりきれなくなるのです。それこそ不平不満なかりの人生となり、愚痴っぽかったり、つまらない顔をしていては、だれも笑顔で近寄って来てはくれませんよ。
「今日も一日いただいた。お蔭様でこの一年、またこの季節を迎えられる。決して死ぬ日に近づいたんじゃない。有り難いことに、今日という日をまたいただけたんだ。」と、うれしく思えるなら、おのずと自分の仕事にも励みが出るのではないでしょうか。そうすれば、自然と両方の手のひらも合わせられるものです。今年もまた一年、日々大切に、常に感謝のうちに暮らしてゆきたいものです。
 

次回は2月1日にお話が変わります。