浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1097話

常任布教師 金台寺 奥田昭應

お釈迦様が御入滅されて数百年、お釈迦さまの教えをもっと多くの人たちに伝えたい・・・ そう願われた若い僧侶たちは、長老達の忠告に耳も貸さず、神の住む山と呼ばれた、聖域であるヒマラヤに、身の危険も顧みず、ついに、足を踏み入れてゆきます。
多くの者の命が、極限を越えた寒さと高山病の、犠牲になったか知れません。
そして、ついに、シルクロードを経て、中国にも仏教は伝えられてゆきました。
前回、「お経」の「経」とは、縦糸という意味で、人生の、社会の、縦糸となる教え、という意味が込められていると申しました。
中華人は、この伝来した偉大なる教え「仏教」を、「宗教」と受けとめます。そして、この教えが日本まで伝わったとき、私たちはこの「宗教」を「むね」の教えと訓読みし、身体と心の常に中心に据え置いて生きて行く大切な教えと理解したのではないでしょうか。
では、そもそも「宗教」という漢字にはどういう意味が込められているのでしょう。
過去の時代から未来へと綿々と続く、量り知れない無量寿の命のつながり。そして、「今、生きる」、この瞬間にも、量り知れない無量の命が、お互い様の連鎖の中で、関わりあって支え合って暮らしている、という壮大な生命のつながりの中に、私たち、一つ一つの命が存在しています。このことを理解した中華人は、これを「宇宙」と訳しました。
そしてさらに、宗教の「宗」とは、ウ冠に「示」と、まさしく漢字の示すとおり、その壮大な「宇宙」の中に抱かれて暮らす私が、皆とともに「どのように生きていくべきかを説いた大切な教え」と受け取ったことに他なりません。
過去からも命をいただき、未来からも命をいただいて生きられるということ、そしてこの瞬間も、色々な生命があって人は生きられる。さらには、男がいて女がいて、若い人もいればお年寄りもいる、健康な人も居れば、病気をかかえて生きている人もいる。貧しい人、大切な人をなくして絶望の人、人に裏切られて人を信用することが怖くなってしまった人、色々な命の人たちと、「共に生きる」とは、
そのことを、宗教が、仏教が、教えてくれているのではないでしょうか。

次回は1月21日にお話が変わります。