浄土宗神奈川教区テレホン法話 第795話
お盆が終わり故郷への帰省から、Uターンラッシュと、恒例の日本の行事に盆がなんであるのか解らなくなって来ています。
お坊さんは忙しく檀家の精霊棚にお経を唱げに飛び歩きます。
今年はすずしい夏でしたが、雨にうたれ、私も悪戦苦闘の盆を終えることができました。
この盆の中で、ひとつだけ、心に痛みを感じたことがあります。それは2〜3年前に、おじいさんを亡くされたお婆さんが涙を流して私の後から、うちわを振ってあおいでくれているのです。実はこの家はすでに経済が息子夫婦に渡って、この老婆には何もすることが出来ないのであります。せめて私の後から、心を込めてうちわであおぐことが精一杯できることであります。御先祖の精霊棚に向かって感謝を込めてあおぐうちわの風を、私は極楽浄土に吹く風のように、ありがたく感じ、お経の声がつまる思いでありました。そんな老婆の思いを知らずに暮らす息子夫婦の事を考えますと、盂蘭盆経に出てきます、目蓮尊者と母の物語りが思い出されます。
我が子の成長を願い自らの時間と命を注ぎ込んだ母親が、地獄(餓鬼道)に落ちて苦しんでいることを目蓮は知るのでありますが、つまり、我が子の成長を願い子供の幸福のため、他人の子供のことは考えず、一途に我が子目連のためにしたことが、欲深いことを起こし、餓鬼に生まれかわる運命となったそのことを知った目蓮は、わたくしがそうさせたのだと思った時、胸の張り裂ける思いで「母一人の罪ではないこの目蓮のせいである」と絶叫し、仏にすがるのです。
お釈迦様のみ教えを聞き、ひたすら供養にはげみます。
そのことで、母は餓鬼道から救われるのであります。これがお盆の始まる由来です。
子を思うがゆえに罪となし、そのことを救う目蓮のお話しは、今日の世の中に母と子の在り方を考えさせるよい物語りかと思います。