現在、戦争や事故・自殺など、多くの命が失われております。このようなニュースに接するたび私は心が痛みます。しかし、日々の暮らしの中で人々に接していると、ふとした瞬間に見せるやさしさに心を動かされます。なにげなく落ちているゴミを拾う。電車の中で声をかけ席をゆずる。自ら進んで行動に移すことは難しいことですが、相手を思う気持ちを持つだけでも尊いことだと思います。世界的に目を向ける広い視野と日常生活の中の狭い視野でみる現実。人がいかに脆く、弱い存在であるかを実感するともに、自己中心的に行動することの愚かさを思い知らされます。 ところで、浄土宗をお開きになった法然上人のご詠歌に「池の水 人の心に 似たりけり 濁り澄むこと 定めなければ」という歌がございます。 このご詠歌は、「庭の池の水を眺めていると、時には澄み、時には濁っています。人の心もそれに似ていて、信仰の喜びに包まれているかと思えば、次の瞬間には煩悩がわきおこってきます。何ともこころもとないことでございますが、このような私であればこそ、ただ阿弥陀さまの本願力を頼み、念仏しましょう。」という意味です。 仏教では、人の愚かさや欲望を煩悩と呼んでいます。この煩悩を法然上人は、絶対になくならないとし、このご詠歌では、自らを煩悩にまみれた存在だとしています。こういった煩悩にまみれた存在を凡夫といいます。どんなに優れた存在であろうとこの煩悩にまみれており、間違った道にはずれてしまいます。そこで、法然上人はお念仏という誰にでも簡単に行える教えを我々に示してくださいました。お念仏をお唱えする者は、善人悪人の区別なく皆平等に、阿弥陀さまのお導きによって極楽に往生することができるのです。 争いや憎しみの絶えない現代、私たちはお念仏のみ光によって、心のやすらぎを得ることができると信じております。 次回は2月21日にお話がかわります。