浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1190話

お釈迦様の時代のインドに、耆婆(ぎば)というお医者様がいました。名医として有名で、また仏教に深く帰依していたと伝えられています。

この耆婆の処方する薬は、多くの薬草やたくさんの薬を調合してあったため、あらゆる病気を治すと言われていました。

患者はこの薬がどういった成分で出来ているのかは知りませんでしたが、耆婆を信じてこの薬を服用することによって病気は治癒しました。

法然上人はお念仏を、この耆婆の薬に例えています。

耆婆の薬が万病を治癒する薬であっても、薬を信じずに飲まなければ病気は治らない。同じように「なぜお念仏を称えるだけで往生できるのか」、と疑ってお念仏を称えないようであれば、往生はできない。良薬を手にしながら服用せずに死ぬということのないように、とおっしゃっているのです。

耆婆の薬がなぜ良薬であったのか。それはおそらく、薬の中に「いかなる病人も治してあげたい」という強いおもいと、それまでに耆婆が得た知識や経験のすべてが込められていたから、ではないでしょうか。そしてそのことを知るから、病人もまた耆婆を信じて薬を飲むことができたと思うのです。

阿弥陀様は、私たちを救うために、「わが名を称えるものは必ず極楽へ迎えるのだ」と誓ってくださいました。そして、その誓いを成就するために、兆載永劫(ちょうさいようこう)という途方もなく長い時間に渡り修行に励み、名号の中に阿弥陀様の覚りの功徳も、救済のお力も、すべての徳を込めてくださいました。

み仏の み名を称える わが声は わが声ながら 尊かりけり (甲斐和里子)

というお歌があります。お念仏を称える時に聞こえてくる「南無阿弥陀仏」の声は、ただの自分の声ではない。そこには「必ず救うぞ」という阿弥陀様の、全ての功徳がおさめられているのです。

お念仏による往生を疑うことなく、一声一声のお念仏を大切にお称えしたいと思うのです。

次回は5月の始めにお話がかわります。