浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1036話


中郡組 大運寺 石垣 一彦
 私たちは人間の子だから人間に生まれて当り前だと思っています。こう思っている人が大半だと思います。はたして、人間だから人間に生まれて当り前だという考え方でいいのでしょうか。
仏教というのは自分がどういうものか、「どこから来てどこに行くのか」ということを考えることから出発します。あなたは、「どこから来てどこに行くのか」と質問されたらどうお答えになりますか。
ある方は、「母から来て、墓に行く」とお答えになったそうです。「母から来て、墓に行く」なんともさびしい答えだと思いませんか。「母から来て」はいいですが、「墓に行く」、これでは死んだら自分はどこに行くのか分かりません。死んだらすべて無くなる、無になるのでしょうか。
仏教の教えというのは、そういう受け取りではありません。もっともっと深くて広い考え方であります。この私というものが、今は人間の姿をして生れていますが、人間に生まれて来る前はどこにいたのであろうか。今こうして人間として命をいただいておりますが、どこに行くのか。「死んだら墓に行く」というだけではないのです。
仏さまの教えによりますと、私たちの命は、この世限りのものではありません。六道輪廻と申しまして、自分のした行いによって、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上という六つの苦しみの世界を限りなくめぐり続けているのであります。そしてこの世界から抜け出ることの出来ないこの私であります。今は人間という世界に生れさせていただいていますが、ここに来る前は地獄であったかもしれない、餓鬼の世界であったかもしれない、畜生の世界であったかもしれない。迷い苦しみの世界の中で、生まれ変わり死に変わり、めぐり続けて今は尊いご縁で人間の世界に生れさせていただいている。このように受け取らせていただくのが、仏さまの教えであります。そしてこの私が、この六道の世界を出る。この世界を出て、どこに行くのかと申しますと、阿弥陀さまの西方極楽浄土に参ります。参るといっても、阿弥陀さまが迎えてくださるのです。来迎してくださるから、私たちは極楽に生れさせていただくことができるのです。この教えが「お念仏」であります。これを正しくはっきりと受けとめて、自分の中に位置づけをしておくことが大切であります。