浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1045話


法然上人八百年御忌も目前となって参りました。今月は法然上人のお姿をたずねて参りたいと思います。
 今の世の中まことにすさまじい世の中ですが、法然上人の時代を見ましても、当時は当時としてとんでもない時代でありました。やはり、悪が栄え、争いが絶えず、誰もが何を信じてよいのかわからない状況でございました。法然上人が念仏一行の生活に入られ、それ以外の修行をやめられたのが四十三歳の時。承安五年、西暦いいますと一一七五年のことです。日本の歴史をひもどきますとご承知の通り、その二年後に鹿ケ谷で平家打倒の密約がされ、あとは転がるように源平争乱へと突入であります。一一八〇年に以仁王を奉じて平氏追討の院宣。源頼朝、木曽義仲の挙兵。常識では考えられない冷酷無情の争いが激化します。京都内は寺院勢力と平家の対立。平重平は四万の軍勢で興福寺を攻め、照明でつけた火が大風にあおられます。興福寺、東大寺、大仏殿へとあっという間に燃え広がり、何と大仏殿炎上ということにまでなってしまいました。意図的なものによる大仏殿炎上ではありませんが、天災地変は時として最悪の結果をもたらします。さらに京都は大飢饉にみまわれます。道のほとりで飢え死ぬる者は数を数えられないほどであったといいます。こんな時、あの木曽義仲が入京してきたというのですから、京都の様子は想像を絶するものです。
 この時のことを法然上人は、
「われ聖教を見ない日はないが、木曽義仲が京都に乱入のときだけ、ただ一日聖教を見なかった」とされています。
 軍兵が法然上人の草庵にまで迫る中、上人はどうやら門弟たちと華頂山を越えて小さなお堂に難を避けられたようであります。その聖教を見られなかった一日、法然上人の心の中が伝わってくるようであります。天災地変の絶えないこの世、そして人間のどこまでもおろかな有様。こんな苦しい、悪縁ばかり誘う時代において、修行など耐えられるはずもない、罪作りな人間には、それに適した教え以外もう行く道がないのだと心の底から思われたことだと思います。その道こそ、まさにお念仏のみ教えなのだと。阿弥陀仏にどこまでもすがり、どこまでも称えていく道こそ唯一救われる道であるぞと確信されたと思います。法然上人の、たった一日聖教を見られなかった日は、実は念仏しかないの思いを確証された日ではなかったかと思えてきます。ただ、お念仏です。