浄土宗神奈川教区テレホン法話 第1046話


 多くの教えがある中でお念仏は易しい教えであると言われます。 しかし、いくら誰もができて易しい行であっても、その功徳がそれほど大きなものでなければ意味をもちません。ほかの行をなさっている方が、「あなたのされているお念仏は誰にでもできる易しい行かもしれないが、しょせん功徳はたいしたことはないねえ」などと言われたらより大きな功徳を得るために、少しばかり難しく、苦しい修行でもしたほうがいいかもしれないと思ってしまいます。阿弥陀様はそのあたりをしっかりわかって下さいまして、阿弥陀仏自らがすべての行を行い、その功徳全部を南無阿弥陀仏の中にこめ、それを称えればよいようにして下さっているのです。普通、人間の常識では、難しい行は難しい分、大変かもしれないが、そのかわり功徳は広大なものだという認識でしょう。しかし、それは人間がそう思っているだけ、阿弥陀様そんな常識を砕いてしまいます。つまり、易しい、誰でもできる行、南無阿弥陀仏と称えるだけの行でありながら、その功徳をとてつもなく莫大なものにしているのです。阿弥陀仏が考えられたお慈悲が込められていることがおわかりになりましょう。
 ですから、お念仏は「易しい」と「功徳広大」の一見相反するように思える事柄がピタッとおさまった行なのです。そのため、法然上人も「念仏は諸行に勝れたり」とおっしゃりすすめられていたのです。
 かつて私は奈良と京都の堺にある木津の安養寺というお寺へお参りしました。そこには、縁起として伝わっている念仏石というものがありました。
東大寺の勧進上人でありました重源上人は大仏殿再建の際、師匠の法然上人を導師として迎えました。上人は連日東大寺で念仏を伝えます。全て終わりますと上人帰洛の途につかれるのですが、大衆何百人が、法華や華厳の教えに全く触れられなかった上人の話に不満がつのり、上人を追いかけ、この安養寺あたりで追いつくとその理由をお尋ねします。法然上人、念仏は諸行に勝れ功徳広大なることを伝え、一枚の紙に南無阿弥陀仏を認め、傍らにある石と掛け合い量り比べて、「この名号の功徳は石より重い」とおっしゃいます。何と石はいかにも軽いかのように次第に上がり、名号は重いかのように大地についたといいます。そのお名号も石、つまり念仏石もこの安養寺に伝わっております。縁起とはいいながらも信仰あつく守られていることに感動し、諸行にすぐれたりのみ教えを胸にお念仏をお称えしました。ただ念仏であります。