浄土宗を開かれた法然上人は、その目的をこのように仰っています。「私が浄土宗を立てるその心は凡夫(ボンブ)が阿彌陀様の極楽浄土に生まれることを示したいがためである」と。
凡夫は平凡の「凡」に「夫」と書きますね。一般的にはボン「プ」と発音されますが、佛教語としてはボン「ブ」であります。
生まれ変わり死に変わり、迷いと煩悩の世界から離れられず、罪を作り続けるほとんどの人――それが凡夫です。
世の人には「智慧第一の法然房」と評された法然上人でしたが、比叡山で佛教を学び修行に励めば励むほど、修行の第一歩である生活や行動を整える「戒」さえも守れない自分自身の姿を嘆かれていました。「凡夫の心は物に従って移りやすく、たとえば猿が木の枝から枝へ飛び移るようである。心は散り乱れて動きやすく集中して平静を保つことは難しい」と語られたと伝えられます。
生きるうえで罪を犯し続ける私たちが、また誰しもが救われる佛教はないものか!?と探し続けてきたのが法然上人です。そしてついには、日本で初めて、凡夫である私たちも救われ得るみ教えを示されました。それが「阿彌陀様、どうかお救いください!」と心に念じて、「南無阿彌陀佛」と口にお称えするお念佛のみ教えです。
現代社会は利己主義(エゴイズム)が横行していますね。これは自分が!自分が!と自分だけの利益や幸福、快楽を求めて、他者のことを全く考えない態度です。
また自分が特別な存在であると考えたり、特別な存在でありなさいと教えられることも多いでしょう。利己主義は、自分が凡夫であることを省みる姿勢とは対極にあるように思えます。自分を中心に世界が回ってしまう、自分が人生の主人公になってしまいますと、その人の意識には神も佛もなくなってしまいます。
自らが取るに足らないありふれた存在である、生まれ変わり死に変わりの苦しみの世界から逃れられない存在であると云うことを認識することによって、私たちは阿彌陀様の方を向き、その御力におすがりする心持ちになるのです。
「凡夫の自覚」こそ、私たちが今、最も必要とする心構えです。
次回は11月11日にお話がかわります。