浄土宗神奈川教区テレホン法話 第699話
今月はお釈迦様とお経を通して平等と言うことをお話しして参りましたが、浄土宗の宗祖法然上人はどのように考えられていたのでしょう。
この答えが正にお念仏であると思います。
法然上人は今から約800年ほどの昔に活躍されたのですが、当時の仏教というのは、知織階級だけのものであり、貴族や僧侶だけの為の仏教でした。難しい学問や、厳しい修行をして、悟りを得られたものだけが成仏できると言う仏教です。
そのような仏教では、畑に出て耕したり、海に出て漁をしたりと言う一般の人々はどうしろというのでしょう。
この答えを求めて法然上人は、六万四千とも言われるお経を、長い年月をかけて探しました。
そして比叡山に登り30年も探し続け見つけた答えが、善導大師の観経疏の中にあった「一心専念弥陀名号」の文章です。
一心に専ら弥陀の名号を称えれば、誰でも極楽浄土に往生できる。と言う教えです。
戦争のために人を殺さざるを得なかった人でも、遊郭に身を沈めざるを得なかった人でも、毎日の暮らしのために時間のない人でも、誰でも彼でも、南無阿弥陀仏と六字の名号を称えれぱ、阿弥陀様が救って下さるというのです。これ以上に平等な教えはあるでしょうか。
これが法然上人が求め、広められたお念仏の教えなのです。
お念仏はいつでも何処でも誰でも称えることが出来ます。滝に打たれるような荒行のように特別な鍛錬も要りません。お経を理解しようとするような、特別な知識もいりません。南無阿弥陀仏の六字の声明念仏こそが、講にでもできる平等な行なのです。
誰にでもできる簡単な行というと、なんだかたたき売りの安かろう悪かろうに思えてしまうかもしれませんが、法然上人は浄土宗の奥義書とも言える選択集の中で、「お念仏は優しい行であるから、総ての人が収められますが、その他の行は難しいので、総ての人々が収めることは出来ません。ですから阿弥陀様は、総ての人々を平等に往生させるために、難しい行を選び捨てて、易しいお念仏の行を選び取って、本願の行とされたのです。」と説かれ、更には「阿弥陀様のお名前には、阿弥陀様が悟られた結果、その身に体得された功徳と、あらゆる衆生を救うために、外に働く功徳とが総て込められています。ですからお念仏の功徳はもっとも勝れており、阿弥陀様は劣った他の行を捨てて、勝れたお念仏を選び取って往生の行とされたのです。」とまで説かれています。
では皆さん来年も、平等な、易しい、勝れた、お念仏と共に一年を過ごしましょう。