浄土宗神奈川教区テレホン法話 第741話
お念仏
前回に心と言葉は一つで離れて存在しないとお話いたしました。
浄土宗を開かれた法然上人が読まれた歌に「月影のいたらぬ里はなけれどもながむる人の心にぞすむ」とあります。これは、「阿弥陀仏と言う仏様のお力の光は何処にでも、どの人にも分け隔てなく届いております。心を開きこのお力の光を自分の中に導き入れ、阿弥陀様と共にいき。阿弥陀様のお名前を「南無阿弥陀仏」と称えるこはによって、その人の心のなかに阿弥陀様はすまわれる。」といわれております。
称えることは声を出すことであります。声を出し言葉を発するとき心が動きます。荒い言葉を使い続ければその言葉を聞くものも、言う自分自身も心がすさんでゆきます。やさしい言葉は人をやさしくし、自分自身もやさしくなります。言葉は心を作り心は言葉を発します。
お念仏も同じです。「南無阿弥陀仏」と言う言葉を発すれば心に阿弥陀仏を作り阿弥陀仏の心が「南無阿弥陀仏」の言葉を発します。
人の言葉は声でありますから、お称えをすることによって自分の心を阿弥陀様の光に向けるように動かし、阿弥陀様のみ光が導き入れるように、心の扉を開く為にお称えをするのです。
いろいろ知ってから、良くわかってからお称えをするのではなく、その前にただ称えれば良いのです。なぜならその称える声が、言葉が心を動かしその心を作るからです。
称えることによって自分の心の中に阿弥陀様がすみ、自分自身と共にあります。一声となえれば一つすみ、二つ称えれば再びすみ、三度称えれば三度阿弥陀様はすまわれます。
称えるほどに阿弥陀様は自分自身と、つかず離れずいつも自分と共におります。
法然上人が、阿弥陀様が心にぞすむと言われたのはこのことであります。
信じるとか、信じないとか、難しいことを言わずにただ「南無阿弥陀仏」とお称え下さい。その称えている時の心は阿弥陀様そのもの、あなたと共にいるのですから。