浄土宗神奈川教区テレホン法話 第750話

 今回は法然上人の伝記の中から神奈川県に関連するお話をしたいとおもいます。しかし残念ながら法然上人と神奈川県を直接結びつけるものは多くありません。
 ところで皆さんは法難という言葉を聴いたことがありますか?法難とは仏教を弘めようとする時にかえって非難や攻撃にあうことです。皇室から重ねて大師号をいただいている人格円満な法然上人にして、大きな法難が三つありました。しかも三つ目の法難は法然上人の滅後、法然上人のお墓を暴(あば)くといった過酷なものでした。
 一つめの法難を「元久の法難」二つめの法難を「建永の法難」三つめ法難を「嘉禄の法難」といいます。とくにこの三つめ「嘉禄の法難」では上人のお弟子たちが流罪になります。
 長楽寺隆寛というお弟子がいました。とくに念仏に励まれたかたです。あまりに念仏に励んだので多念義の隆寛といわれたほどの方です。すさまじい念仏流行の張本人といわれ、他の仏教教団から訴えられ、東北に流されることになります。この隆寛律師を京都から奥州に護送する人がおりました。毛利季光(もうりとしみつ)といいます。この人の所領は相模国飯山です。いまの厚木市にあります。季光は本来隆寛律師を奥州の陸奥の国に送る任務を負っていました。ところが隆寛の説く法然上人の教えを受け入れ、弟子になります。このことは、お上の命令に背くことですから命がけであったにちがいありません。季光は名を西の阿弥陀仏、西(さい)阿弥陀仏とかえます。専修念仏の人に生まれかわります。この逸話は法然上人の教えと隆寛律師の人柄を今に伝えております。
 嘉禄3年12月13日、隆寛律師は飯山の地で亡くなります。伝記には端座合掌、高声念仏二百余遍、『往生礼讃』の「弥陀身色如金山」の文を唱えて寂した。と伝えられます。

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