浄土宗神奈川教区テレホン法話 第751話

 今身体を鍛えること、使うことで自分自身のあり方を見つめようとする動きがあります。
 四国遍路への関心もそのひとつです。四国を実際に遍路として巡拝する人は増えています。
 また体験記も含めた巡礼に関わる書籍が売れています。身体を使って今までの生き方を再考してみようとする人たちです。この他にも新入杜員の研修で自衛隊の訓練を行う会杜、宗教教団に依頼して修行をさせてもらう会杜なども多々見聞きします。これまでの知的教育偏重への反動と見ることもできるでしょう。しかしそれ以上に身体と心が一体であると言う伝統的感覚の復活と考えてみたいと思います。言い換えれば修行の復活です。
 修行は宗教一般から見ると「身体を通してこころを鍛える営み」と考えられています。宗教では修行と言いますが、お茶やお花を習うことも修業と呼びます。これは職業的な技術を見に付けることです。このときには「ぎょう」の文字が「業」で表されることが普通です。強いて言えば宗教の修行は精神的な鍛錬を、職業的な修行は技術を磨くことといえます。しかし日本人の場合はこうした技術的なことを習得する場合であっても、それに止まらず精神的な完成を求めていることも少なくありません。
 ここには身体と精神が分かちがたく結ばれていると言う日本人が育んできた人間観があると思います。
 また、仏教は身体を抑制することで心を整えるという修行の方法を生み出しています。仏教の修行の根本は戒、定、慧の三学にまとめられたと言えるでしょう。身体を制御、つまりコントロールし、こころを鎮めて瞑想し、こだわりのない真実の知恵を獲得する。そこに悟りの境地が生まれるというのです。この修行システムの中にあるのは身体をコントロールすることでこころの平安が得られると言う「身と心」の不可分な関係を指摘していることだと思います。法然上人も口称念仏、つまり声に出して唱える南無阿弥陀仏のお念仏を勧めておられます。それは「人間は身体と心はひとつですよ、ですから身体とこころを一つにして阿弥陀様のお名前をお呼びしなさいよ」、と教えていられるように思います。
ついつい知に走り、身体をおろそかにしがちな現代の人々にとって身体とこころをひとつにした「お念仏」お勧めいたします。

   前へ  年度メニューへ  次へ