浄土宗神奈川教区テレホン法話 第768話

 残暑がいつしか去り、冷たい秋の雨が降り続くある金曜日の午後のこと。3、4年生と思われる1人の男の子が境内の奥手にある地蔵堂ヘ向かう姿を目にしました。雨の中何事かなと様子を眺めていると、頻りに子を合わせて何かをお願いしているようでした。暫く手を合わせ、頭を下げると小走りに山門の方へと戻っていきました。あの子はお地蔵様に何をお願いしていたのだろうかと思いを巡らせていました。−そうだ、明日は小学校の運動会が予定されている。彼は運動会で優勝するように、演技が上手にできるように、天気がよくなるようにとお願いをしにやってきたのでは−など勝手な想像をしていたが、男の子の真剣な祈る姿は微笑ましくもあり、お地蔵様のご加護がありますようにと私も祈ってしましました。さて、私達の日常生活でも自分や自分たちだけではどんなに努力してもどうにもならないことはたくさんあるものです。そんな状況に出会った時「神様、仏様どうかお助け下さい」と口に出してはいませんか。これはもう理屈でも何でもありませんね。私達の心の奥底から自然に出てくる祈りなのです。そのどうにもならないことの究極が死を迎えることです。死は老若男女、貧富などに関わりなく皆等しくやってきます。両親から授かった私の生命もやがては最後の時を迎えます。山奥や大樹の陰に隠れても死から逃がれることはできません。それでも何とかしたいのが私達の心です。お地蔵様に手を合わせていた男の子のように、仏様に手を合わせる生活をするしかのいのです。朝に夕にまた折々に手を合わせ「南無阿弥陀仏」とお念仏をお唱えいたしましょう。阿弥陀様の限りないお力を頼み、大慈大悲の救いにおすがりをすることで、どうにもならない現実から少しでも解放され、心が安まるのではないしょうか、心が安まれば毎日の生活は明るく楽しくなっていくし、周囲の者も気持ち良くなります。手を合わすと皆が幸せになれるのです。

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