浄土宗神奈川教区テレホン法話 第885話
三浦半島にあります私の自坊では、「月参り」とって毎月命日の日付の日にお檀家さんのお宅に伺って、お参りをさせて頂いておリますが、あるお檀家さんのお宅に伺った時のこと。
その日はたまたま法務が重なり、伺う時間がいつもより遅れてしまいました。
急いでそのお宅に伺いお勤めさせて頂き、お経を読み終え改めて「遅くなって申し訳ございませんでした。」と私か言うと、「本当にお待ちしていましたよ。私も朝夕仏檀に向かって、お線香さ上げ、お念仏をしていますが、やっぱりこうして和尚さんに来てもらって念仏してもらわないと、亡くなったおじいさんに申し訳ない気がして落ち付かないんですよ。」と仰りました。
そこで私は、「いえいえ、私か称之る念仏も、お婆さんが称える念仏も同じです。心を込めてお称えする念仏は、どなたにも同いように功徳があって、西方浄土に届いています。むしろおじいさんには、耳慣れたお婆さんの声の方か心地良く聞こえるかも知れないですね。」とお話ししました。
お婆さんは、「そうですか、それは良かった。」と仰り、ニッコリされていました。
浄土宗の二祖様、鎮西上人の伝記の中にも、こんな話かあります。
ある日、宗祖法然上人と二祖鎮西上人が法談されている時、法然上人が「阿波の介が申す念仏と、私が申す念仏、どちらが功徳があると思うか。」と鎮西上人に質問されました。
阿波の介とは、様々な罪を犯した悪人だったが、後に改心して念仏の信者になった者で、その事を知っていた鎮西上人は、「阿波の介の念仏が、お師匠様の念仏に等しく功徳があるはずがありません。」とお答えになったのです。
すると法然上人は、「今まで浄土宗の何を勉強してきたのですか。」と鎮西上人も強くたしなめられたということです。
つまり、私達が常日項お称えしている浄土宗のお念仏は、老若男女、身分の高い低い、智識のあるなし、罪のある者ない者の区別なく、心から念仏するすべての人々に同じように功徳があり、もれなく阿弥陀様に届き救いの道になるのです。
この有難い浄土の念仏の教えをしっかりと胸に頂いて、ますます念仏に精進して頂きたいと思います。