浄土宗神奈川教区テレホン法話 第921話
神奈川教区鎌倉組大長寺 嵒瀬弘昌
仏教は、さとりを目指すものです。さとりをひらかれたのが、仏様です。浄土宗においても、さとりは、重要なことです。では、さとりとは、簡単言えば、正しい心、正しい行いと言えます。
そう言ってしまうと、私は、正しい心、正しい行いをしていると言われる方が、いると思います。しかしながら、人間、24時間いつも正しい、心、行いをするのは、難しいのです。たとえば、車に乗っていて、他の車に、道を譲ってあげても、ハザードをだしたり、手を上げるような、お礼の行為がないと、譲ったのにお礼もないのかと
思ったりします。また、お念仏をしていても、足がしびれてしまい、早く終わらないかなと、思ってしまたりします。正しい、心、行いしていても、なかなか、持続することは難しいのです。つまり、我々は、凡夫であり、悟には、程遠いのです。
宗祖法然上人も、厳しい修行をしても、さとることができない、多くの人をすくうことができないと、悩み、さまざまな経文を読んでいたときに、唐の善導大師が書かれた「観経疏」に、「一心に、もっぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥、時節の久近をとはず、念々にすてざるものを正定の業と名づく。彼の仏の願に順ずるが故に。」つまり、いつ、いかなるときも念仏を唱えなさい。それで、極楽往生(いける)は、決定する。なぜなら、阿弥陀仏は、自分の名を呼ぶものすべてを救うと誓われているからだ。私のような凡夫が、自分の力でさとることは、無理だ、阿弥陀仏に全てを、お任せしすくわれる教え、つまり、浄土宗を開かれたのです。極楽では、だれでもがさとることができる場所なのです。ですので、浄土宗では、念仏を申し、極楽に行って、阿弥陀様の元、さとりをひらくのです。
いつでも、どこでも、お念仏を唱えてほしいのですが、先ほど言ったように、道を譲っても御礼がない、腹が立つようなことがあったなら、自分が凡夫であると自覚し、是非「南無阿弥陀仏」と唱えていただきたいと思います。
次回は3月1日にお話が変わります。