浄土宗神奈川教区テレホン法話 第937話
平成十九年八月・第一話(通算・九三七話)
京浜組 林田康順
みなさんこんにちは。現代は「死」が見えにくい時代といわれる一方、書店には「死」を取り上げた本が所狭しと並んでいます。その際、見逃してはならないのが「生の集大成としての死」と「誰しもがはじめて迎える死」という死の二面性です。ともすると私たち現代人は、人生の締めくくりとして、自他共に称賛される「見事な死」や「立派な死」を遂げることに余念がない一方、「はじめての死」をいかに迎えるかということには思いが至らない、いや、至らせない風潮が蔓延しているようです。
もちろん、自身で納得し、家族や友人からも称賛される「立派な死」を迎えられるように備えるのは、実に素晴らしいことです。しかし、私たちは「はじめて迎える死」も、この身をもって体験せざるを得ないのです。そして、法然上人が生涯を賭してお示しになった、阿弥陀さまとお浄土の実在という教えの第一義は、正にそこに見出せるのであり、その問題が解決した時、あらためて私たちは「生」の尊さをかみしめることができるのです。
『浄土文』という書に「備え」という次のような一節があります。
昼には必ず夜がある。どうして夜の備えをしない人があろうか。
暑には必ず寒がある。どうして寒の備えをしない人があろうか。
生には必ず死がある。どうして死の備えをしない人があろうか。
何を夜の備えとするのか。灯火・寝具である。
何を寒の備えとするのか。衣料・燃料である。
何を死の備えとするのか。浄土への往生である。
私たちは、それこそ明日の事さえ予測できないお互いです。だからこそ私たちは、いつでも・どこでも「死への備え」をしておくことが大切です。もちろんそれが、お念仏であることは申すまでもありません。法然上人は、こんな歌を遺されています。
阿弥陀仏と 十声となえて まどろまん ながきねむりに なりもこそすれ
次回は八月十一日にお話がかわります。