浄土宗神奈川教区テレホン法話 第938話

平成十九年八月・第二話(通算・九三八話)
京浜組 林田康順 平成十六年六月一日、佐世保市立大久保小学校六年生の御手洗怜美(さとみ)さんが同級生にカッターナイフで切りつけられ、出血多量で亡くなりました。事件から一週間後、毎日新聞佐世保支局長、怜美さんのお父さんが怜美さんに宛てた手紙を公表されました。 「さっちゃん。今どこにいるんだ。母さんには、もう会えたかい。どこで遊んでいるんだい。…さっちゃん。ごめんな。もう家の事はしなくていいから。遊んでいいよ、遊んで。お菓子もアイスも、いっぱい食べていいから。」 この呼びかけには、先立たれた怜美さんが今でも楽しく遊び、美味しいものを食べていて欲しい、そして、数年前に先立たれたお母さんとどこかで必ず会っていて欲しいという切なる願いが込められています。さらに、その底意には「いつの日か必ずお父さんもさっちゃんに会いにいくよ!」という心の叫びが読みとれます。 このように、悲しい事件の報道や葬儀の場で「空の上から僕たちのことを見守っていてね」「私たちが行くまで仏さまの国でしばらく待っていてね」と残された方々が今は亡き大切な方に呼びかけています。こうした呼びかけからは、意識するとせざるとにかかわらず、亡き方が旅立たれた〈場所〉、〈心と心の再会〉が叶う〈場所〉が想定されています。今後、どれほど時代が移り変わろうとも、こうした思いが私たちの心からなくなることは決してないでしょう。 『阿弥陀経』というお経の中に「倶会一処」という一節があります。「倶(とも)に一つの場所で会う」という意味です。ここでいう一つの〈場所〉こそ、今は亡き大切なあの方との〈心と心の再会〉が叶う、阿弥陀さまのお浄土なのです。そして、そのお浄土に往生するためのたった一つの約束こそ、お念仏なのです。 後からやってくる仲間の笑顔を思い浮かべて、法然上人は次の歌をお詠みになりました。
生まれては まず思い出ん ふるさとに 契りし友の 深きまことを

次回は八月二十一日にお話がかわります。