浄土宗神奈川教区テレホン法話 第939話
平成十九年八月・第三話(通算・九三九話)
京浜組 林田康順
平成九年、臓器移植法が施行(しこう)されました。その後も議論は続き、とりわけ小児の脳死からの臓器移植については、今も議論が絶えません。そうした中、わが子の腎臓を提供した家族の姿を取り上げた「ドナー家族を訪ねて」という新聞連載がありました。法律上、心臓停止後であれば小児からの腎臓提供は可能で、年に数例ですが、わが国でも行われています。その中、四歳三ヶ月で悪性脳腫瘍で亡くなった長男の腎臓を提供したお母さんと記者とのこんなやりとりが紹介されていました。
「もし、もう一度お子さんの臓器を提供する機会を得たならどうしますか」と尋ねると、「もちろん提供します」とお母さんは即答した。その後で、ややためらいがちに「心を失えば、天国で私たちのことを忘れてしまうから」と、「心臓の提供には拒否したい」と打ち明けた。
さて、私はここで、臓器提供の是非について論じるつもりはありません。ただ、思いを馳せていただきたいのは、わが子の腎臓提供まで決断されたお母さんの科学的には決して説明できない、複雑で割り切れない、ありのままの「心」の姿です。なるほど現代人は、それがたとえ小学生でも、「心臓」が全身に血を送り出す、言ってみれば、ポンプの役割を果たしていることを知識として承知しています。無論、このお母さんも例外ではないことが「ややためらいがちに」という一節から自ずから知られます。しかし、「頭」の中で納得はしても、「心を失えば、天国で私たちのことを忘れてしまうから心臓の提供には拒否したい」と仰るお母さんの思いを一笑にふすことなど、誰にもできはしないでしょう。なぜならそれは、それこそ誰しもに共通する〈かけがえのない大切な方〉との〈心と心のふれあい〉を失いたくはないという願いに共鳴するからです。法然上人が八〇〇年前に詠まれた和歌が、色褪せることなく、尊く歌い継がれる由縁はまさにそこにあるのでしょう。
露の身は ここかしこて 消えぬとも 心は同じ はなのうてなぞ
次回は九月一日にお話がかわります。