浄土宗神奈川教区テレホン法話 第962話

今の世の中、自分を見失ってしまうことが多くあります。こちらが一生懸命がんばって努力しているのに全然報われず、ふと気づいてみたらひとりぼっちだったり、つらい思いをしたりします。子供、大人に限らず誰もが自分のうちに閉じこもりがちです。辛い気持ちも、悲しい気持ちも、せつない気持ちも反対に楽しい気持ちも素直に口で伝えるということができなくなっているように思います。確かに情報機関も発達しているし、携帯電話、メール、ブログなど自分を吐露する場所があるようには一見見えます。若い方々などはそれを使っているようですが、どうもそれに頼っても表面的で、心から自分が声を使って話し、それをまた聞いてもらうということがなくなってきているように思うのです。特にコンピュータの普及は、人と人とが話しをする時間を奪ってしまったといえませんでしょうか。コンピュータを使っている方はおわかりだと思うのですが、画面に向かうと時間はいくらでもたっていきます。その分、それを使っている人も使っていない人も、声を使ってものを伝える時間がどんどんなくなってきているわけです。 声が届かないということほど悲しいことはございません。皆それぞれに日々の生活の中でがんばっていると思うのです。しかし、人間には限界がありますし、いつも元気で楽しくとはいきません。そんな時、声をかける人がいて、それが届き、また声をかけてもらえる人がいればパワーもでて参ります。そもそも声に出すという行為は助けを求めるものであり、助けをさしのべるものであるのです。声に出せば楽になりますし、やさしさも生まれます。毎日のニュースで悲惨な人間関係の事件を見ていますと、声に出していればなあ、声をかける人がいたらなあと思うことがたくさんあります。声があれば問題を最小限にとどめることもできたのにという事件がけっこうあると思うのです。

お念仏を声に出すというのも助けてくださいということです。阿弥陀仏はそれをしっかり聞いてくださっています。声に出して私の名前を呼ぶのですよ、南無阿弥陀仏と称えなさいとおっしゃってくださいます。声に出すということ、これが何よりも大切であります。どうぞ、声に出すということ、心がけて下さい。

次回は4月21日にお話が変わります。