浄土宗神奈川教区テレホン法話  第670話
 
 皆さんご存知の仏教をお開き下さったお釈迦様は、一国の王子として、何不自由ない生活をしておらました。しかし、ある日突然、その権力と栄光を全て捨て、いのちと引き替えになるほどのそれはそれは厳しい苦行に入られたのです。そして、お悟りを開かれ、苦悩に迷う私たちが救われる道が開かれました。
 一方、法然上人もまた、若くして比叡山に登られ、天台宗の厳しい修行と勉強を重ねられ、智慧第一の法然坊としてその名声をとどろかせ、末は天台座主としての地位が約束される程の優れたお坊さんでした。しかし、阿弥陀さまのお念仏の教えに逢われるや、揚々たる前途を捨て、比叡の山を下り、阿弥陀さまのお念仏を広めることに邁進されたのです。島流しにされたり、還俗されたり、また、弟子達にも危害が及びましたが、ひるむことはありませんでした。
 お釈迦様と法然上人に共通して言えることは、自分の名誉や地位、権力を一切捨て、ひたすら世の人々を救うために、命をかけて下さったということです。こんな私たちのために命をもかけて下さったという御心に感謝し、心して有り難くみ教えを戴かなければならないでしょう。
 単に、私たちの日々の快楽や欲望を充たすために、又、ひとときの幸せに浸るためだけに命をかけて下さったのではありません。もっともっと壮大な、本当の意味での、人間救済であり、その事に命をかけて下さったのです。
 すなわち、六道輪廻、迷いの世界から脱け出し、極楽に往生し、さらに、究極の心の平安への到達という何とも凄いお導きなのです。
 今を生きる私たちには現世利益も大切なことでありますが、ややもすると鎮めるべき欲望の火を一層燃え上がらせるようなものもあり、時には、お金儲けや自分の欲望を充たすための手段として、仏教の名がかたられ、お経が使われている向きがあります。これは誠に残念なことであり、さぞかしみ仏さまも嘆いておられることと思います。
 私たちはいま、人として生まれ、このすばらしい壮大なみ教えに逢うことが出来たことを有り難く受けとめさせていただき、より真剣にその教えについて学び、実践する必要があるのではないでしょうか。
 
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