浄土宗神奈川教区テレホン法話 第892話
新緑の季節を迎えますと、少し足をのばしてよその町へ出かけたりしますが、最近は市町村の合併などがおこって新しい市や町の名前にとまどったりします。
市町村の合併がおこる時問題となるのは、これまでの愛着のある地名を生かすのか、なくすのか多くの問題があるようです。
その際、言葉の響きだけで価値を決めてしまう傾向が人間の心の中にあるようです。
私の住む周辺地域でも「葉山」とか「湘南」という言葉にブランドの様なイメージを描かれる方もおり、こんな所がという場所が「南葉山」だったりしますと、思わず苦笑いしてしまいます。
神戸なども、今ではまず大震災そ思い出しますが、ひと頃はやたら神戸なんとかという神戸をつけた商品があふれました。
神戸、葉山、湘南などつけたらいいというものでもないと思ってしまいます。
これは人間そのものにあてはまりましょう。
一人間なのに、重役とか立派な肩書きがつくことで勘違いしてしまう人が多いですね。
きらびやかな服に身を包めば一体向様のつもりだという横柄な態度に出る方もいます。
地位名誉、ブランドそうしたものをつけるだけで人が変わったかのように思われるかもしれません。
しかし、人間どこまでも愚かで救われない存在です。
いくら違うもので身を隠してもおろかな私は私のまま。
何ら変わっていない救われない自分を見つめて念仏称えなさいと法然上人はおっしゃっいます。
それが、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべしということです。