浄土宗神奈川教区テレホン法話 第894話
今世の中は何から何まで粗略になっていす様に思います。
一つ一つの事を綿密に考えたり行ったりする事が避けられ、大まかでぞんざいな方向に全てが流されているように思えてなりません。
言葉使いに対しても他人に対する礼儀にしても、どうもおろそかにしているように思います。
これは物事を少しでもコンパクトにしたり、最小限にとどめたりすることが日常的となり、そのために大切な事まで削られてしまった結果ではないかと思います。
大切な事が消えたらコニパクトにすること自体の意味がなくなってしまいます。
ところが私どもがお称えさせて頂いている南無阿弥陀仏のお念仏は、たった六字のお名号ですが、阿弥陀仏の慈悲、私どもを何としてでも救いとろうとする願いが全てこめられています。
阿弥陀仏は、罪を作り続ける私を何としてでも救うため、私が必ずせねばならない、しかしとうていできるはずのない修行を、自ら代わってやって下さり、その全ての功徳を六字のお名号にたくし、阿弥陀仏の名号を呼ぶというきわめて最小限の行を用意して下さったのです。
ただ、称えればよい、それで最高の功徳が得られるというのですから、このコンパクトは粗略とは全く違うのです。
考えてみますと、私ども信じるその1つが難しくてできません。
ちょっとしたことで右にも左にも心は転んでしまいます。
信じ切ることは難しい行なのごす。
阿弥陀仏はそれを先刻ご承知なのですね。
ですから南無阿弥陀仏と声に出すことこそを唯一の行として下さったのです。
どうぞたった今この一瞬から南無阿弥陀仏と称えて参りましょう。