浄土宗神奈川教区テレホン法話 第926話

鎌倉正業寺渡部俊賢 平成23年は、浄土宗を開かれた法然上人がお亡くなりになってから800回忌をお迎えします。 前回は法然上人ご誕生から9歳で仏道に入門した時の話をさせていただきました。 1133年4月7日、武士の家に生まれた勢至丸、後の法然上人9歳の時、父漆間時国は、前々からいさかいがあった明石源内定明の夜襲にあい、非業の死を遂げられたのでした。父は最後に「敵を怨まず、父の幸せを願い、迷いを離れる道を探しなさい。」という遺言を残され、勢至丸は、母方の叔父、観覚が住持している菩提寺に入り仏道修行を始めました。 聡明な勢至丸は、聞いた教えはすぐに理解し、一を聞いて十のことが分るという賢さでした。叔父観覚は、その器量を思い、当時仏教会の最高峰の比叡山で修行することを勧めたのでした。それに従い、勢至丸は、13歳の時に、比叡山に登ることとなりました。しかし、それは、母との別れでもありました。我が子との別れに悲しむ母に法然上人は「母上の悲しみも分かります。私もとても辛く思います。しかし、私には、今は亡き父の「出家しなさい」という言葉が耳から離れません。私は仏の道を悟ることこそ、恩に報いることであると信じています。」と何度も繰り返し慰められたのでした。 13歳で比叡山に登られた法然上人は、まず、比叡山延暦寺の三つの塔のひとつである西塔の北谷の持宝房を住持されている、源光上人のもとで、仏教を学びます。まだ幼い身でありながら、法然上人の器量は大変優れており、師匠源光上人は、自分よりも優れた学問の持ち主、東塔の西谷にある功徳院の皇円阿闍梨のもとに送り、天台宗の奥義を極めさせたのでした。皇円阿闍梨もまたこの弟子の秀才ぶりに驚き、「いずれは天台宗の座主になるように学問に励みなさい。」といわれたのでした。 しかし、法然上人は18歳の時、一切の名利を捨て、西塔黒谷にある慈眼房叡空上人のもとで隠遁し、この後25年間、一切経を読みふけることとなります。智慧第一の法然房と呼ばれるように、すべての宗派の教えを学んでいきます。それは、乱世において、すべての人々が、苦しみ、迷いにとらわれずに生きられる教えを見つけるためでした。 承安5年(1175年)法然上人43歳の春、中国の善導大師の書かれた、観無量寿経の解釈書の「一心に専ら阿弥陀仏の名を称えること。いつでもどこでも時間の長い短いの区別なく。常にこのことを念頭において継続する。これが正しく定められた往生のための行いである。なぜなら、それが阿弥陀仏の本願に順ずることだからである」という一文を確認した後、「この教えこそ、阿弥陀様の御名を称えることこそが、すべての人々が救いとられる教えであることを確信されたのです。 法然上人がお念仏の教えを選び取られた一文が「浄土宗の立教開宗の文」といわれています。

次回は4月21日にお話がかわります。